「日本の宝」高村憲明さんについて
まだ日差しも強く、暗くなる気配も見せない夕刻。
バスケットコートのすみに、はしゃぎつかれて座り込む日本人。
アフリカ人のスタミナには何度も驚かされました。
バスケットコートにはリングがなく、地面もでこぼこが目立っています。
それでも、ボールひとつあれば日が暮れて何も見えなくなるまで遊んでいそうです。
ふと気がつくと、まわりにはスーダン人が周囲を取り囲むように輪を作っていました。
そのなかから、口にマッチ棒をくわえたタンクトップのひとりの青年が声をかけてきました。
彼は言います。俺の名前は「ドラゴン」だ、と。
あまりにもうそ臭い名前に冗談だと思って笑い飛ばしていたのですが、
何度も聞いてみると、どうやら本当らしい。
一年ほど前、
同じ日本から来たひとりの青年が、絶対に嘘だと言い張ったため、
彼の両親にまで会って彼の名前がドラゴンであることを確認したそうです。
その日本人の名前は、タカムラノリアキといいます。
東京大学の学生だった高村さんは2000年8月から、
NGO「わかちあいプロジェクト」のプロジェクトマネージャーとしてカクマに赴任、
主にユースプログラムに精力的に関わってきました。
スポーツプログラムを支援し、ユースリソースセンターを建設し、
キャンプで暮らす難民の最も近い位置で彼らの声を聞き、力となっていました。
若者たちに空手を教えており、ドラゴンも高村さんに空手を教わったそうです。
そのためか、日本人は誰でも空手ができるというのがカクマでの通説になっています。
(僕は空手ができないといったら、なぜ日本人なのに空手ができないんだ、と何度も責められました。)
スポーツを愛する、責任感にあふれた青年だったそうです。
いまはそれを「過去形」でしか話せないことを、悲しく思います。
2001年7月7日、
高村さんの運転する四輪駆動のトラックが、カクマから隣町のロドワに向かう道程で激しく横転、
この事故で、高村さんは一命を失いました。
カクマの少年たちの参加するサッカー大会に向かう途中だったそうです。
25歳でした。
少しづつ涼しい風が吹き始めたバスケットコート。
ドラゴンに高村さんについて聞いてみました。
すると、ドラゴンは急に目頭をおさえ、うつむきました。
隣に座っていた青年がかわるように話し始めました。
高村さんはいつでもキャンプの若者たちを励まし、力であり続けた、
その責任感に、誰もが敬意を抱いていました。
高村さんは神に召されたんだ、
と語る青年の声も途切れがちに聞こえました。
でも、だとしても、それは残酷過ぎる、といっているようにも聞こえました。
その事故が彼らに与えたショックは計り知れません。
いまは、その若者たちが、子供たちにサッカーを教え、算数を教えています。
日暮れが近づき、バスケットコートをあとにしました。
もし、彼の存在がなかったら、
ここまでキャンプの人たちが友好的に接してくれるこはなかったと思います。
子供たちには何度も「ノリアキ、ノリアキ」と呼び止められました。
もし、会って話をしたい人をひとりあげるとしたら、
間違いなく高村さんの名前を挙げることでしょう。
彼は、キャンプの中で、何を見つめ、何を願ったのでしょうか。
written 2002.03