みなさまにこのページを通して、ケニア北西部、カクマの難民キャンプへの
ワークキャンプに参加することをお伝えしました。
ところで、難民キャンプってなに?何をするの?と、
疑問に思われる方も多いと思い(正直自分もよくわかっていないのですが)、
難民問題や、難民キャンプに関する基礎知識のページを設けました。
一緒に勉強しましょう。
そもそも難民とはどんな人のことをさすのでしょうか?
その定義に当てはまるものを簡単に紹介します。
以上が、難民条約に定められている難民の定義です。
難民条約は、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)と
西側諸国を代表する26カ国の政府代表、29の非政府組織(NGO)の代表、
さらにふたつの国連専門機関によって制定され、1954年に発効されました。
その定義にあたる人、つまり難民と認定された人の数は世界で約1210万人います。
それに加えて、難民と認定されるのを待っている庇護希望者、
本国に帰還したものの生活の再建に助けが必要となる帰還民、
また、家を失ったものの国境を超えない国内でまだ避難生活をしている国内避難民がいます。
それらを合計すると約2110万人。
地球上の284人にひとりは難民として保護されなければならない状態にあるのです。
最近ではアフガニスタン難民がニュースで取り上げられ、注目されています。
アフガニスタンでは2001年、1年間で推定358万人の難民が発生し、
隣国のイランやパキスタンで保護されています。
それらをはじめ、世界中のいたるところに難民キャンプはあり、
そのひとつがカクマの難民キャンプです。
難民キャンプとは、
国外に流出してきた難民を保護する目的で設けられています。
運営するのはNGOのグループが主となります。
また、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のスタッフが派遣され、
継続的な支援を行っています。
キャンプの運営費などは各国政府機関による援助、民間団体や企業、募金などと、
あとはUNHCRの予算になります。
食事は配給によって行われます。
配給されるのは人間が一日に活動するのに最低限のエネルギーを得る程度のもの、
食べ盛りの若者や、子供たちが満足できるほどの量はありません。
また、さまざまな社会的資源が整えられ、難民の生活をサポートています。
学校、図書館、下水道、病院、スポーツをするための設備もささやかながらあるようです。
なかにはキャンプ内で商売を行う難民もいます。
と、これはカクマの難民キャンプに関してですが、
難民キャンプのいくつかではそういった環境は整備されていないところもあると思われます。
しかし、難民キャンプは難民が一時的避難をする場所として設けられたものであり、
定住先ではありません。
難民はキャンプに保護されている以上、難民キャンプの外に出ることは許されていません。
キャンプのなかの世界しか知らない子供たちもたくさんいます。
しかし、そこでは、人種・宗教・言語を越え、さまざまな難民が共同生活をし、
コミュニティを形成しています。
難民キャンプでの生活を終えるには3つの方法があります。
ひとつは自主的帰還と呼ばれるものです。
一時的な避難を終え、それまで生活していた本国へ帰還するというものです。
本国に安全な状態が回復され次第、この方法をとる場合が多くなります。
ふたつめは避難国定住です。
避難先の国内に定住先を見つけ、そこに住居を構えます。
みっつめは第三国定住(リセトルメント)と呼ばれるものです。
本国でも、避難先の国でもない第三国に受け入れを依頼し、定住するというものです。
難民の受入先としてはアメリカが7万2500人と一番多く、
続いてカナダ、オーストラリア、スウェーデン、ノルウェーと続いています。
ちなみに、日本が受け入れた難民の数は140人。
アメリカの0.2%にしか過ぎません。
アフガニスタン難民の多くは自主的帰還をはじめています。
一日に数千人規模の難民が自国アフガニスタンに帰国しています。
しかし、アフリカ各地で行われる内戦はいまだ解決を見ないところが多く、
どこの国も政情不安定な状況が続いています。
そのため、移住先が確保できず、先の見えないキャンプ生活が続けられています。
カクマの難民キャンプは1992年、
スーダンの内戦によって発生した約3万人の難民を保護する目的で設立されました。
カクマはケニア共和国北西部、スーダンとの国境付近、トゥルカナ地方にあります。
以降、現在まで難民は増加の一途をたどり、
現在、難民キャンプでは7万5千人の難民が生活しています。
スーダンからの難民だけではなく、ソマリア、エチオピアからの難民も流入しています。
カクマの難民キャンプはLWF/DWSというNGO団体が運営しています。
LWFはルーテル教会の組織で、第2次世界大戦後、戦災孤児の救済のためにスタートしました。
各地での難民キャンプの運営だけではなく、
世界各国での女性運動や地雷撤去、ダム建設などを行っています。
現在、難民キャンプが形成されてから9年が経ち、
難民キャンプというよりもひとつのコミュニティとしても成熟されています。
しかし、逆にNGOや各国政府帰還からの緊急援助カテゴリーからもはずされ、
UNHCRも予算を大幅にカットしているのが現状です。
長期化するキャンプ生活に、帰還する目処も立たないまま、
わずかな希望を模索する日々が続いています。
スーダンの内戦は北部と南部との対立から生まれました。
スーダンは1956年の独立以前から、北部にはアラブ系、イスラム教徒が多く、
南部には黒人、キリスト教徒または伝統宗教が多く、といった形で分かれていました。
南部は北部との連邦制の導入を強く求めましたが無視され、独立を迎えました。
そして独立直後第1次内戦に突入します。
その後69年から85年のヌマイリー政権時代の83年9月イスラム法シャリーアの導入を試み、
体罰的な法律が発効しました。
するとすぐに南部(非イスラム教徒が多い)のSPLA(スーダン人民解放軍)は武装闘争に入りました。
これが現在まで続いている第2次スーダン内戦の始まりです。
89年6月にクーデターで政権を握ったバシル大統領はシャリーアを施行、
イスラム国家建設を目指し、南部のSPLAなどの抵抗運動に対しては
ジハード(聖戦)と称して暴力的に鎮圧していきました。
このバシル政権下、イスラム教徒のシンボルで大統領の盟友だったのが、ツラビ氏です。
バシル政権誕生後、反政府側は北部のウンマ党や共産党、南部のSPLAなど
さまざまな政治勢力が結集し国民民主同盟(NDA)を結成しました。
NDAは、バシル政権打倒後のスーダンでは
政教分離や南部の自治権を認めることを確認しています。
しかしいまだにバシル政権は存続しています。
99年12月にはバシル大統領とツラビ氏が対立し非常事態宣言が発令されました。
これ以降両氏の仲は冷え切っています。
大統領はイスラム強硬路線を改め、
国外追放になっていた反政府側の指導者の多くも、帰国を認められています。
ウンマ党の指導者も帰国し、NDAを脱退しました。
またNDAに対し、暴力行為を止め憲法や法律を守ることに合意すれば、
89年バシル政権誕生後の政府への敵対行為を見逃すという大赦もちらつかせましたが、
法律はイスラム色が強く、キリスト教徒や伝統宗教の多いNDAは拒否しました。
ツラビ氏は新党を結成し、大統領との対立姿勢を打ち出していました。
2000年以降、政府軍と反政府勢力(SPLA等)の戦闘が激化し、
2001年に入ってからも、引き続き小規模の戦闘が多発しています。
さらに干ばつの被害も重なり、南部全域にわたる食糧不足が深刻化し、
飢餓状態に陥っています。
内戦は18年目を迎えようとしています。
※追記(2006.02.12)
スーダンでの内戦は2004年に包括和平調印に至り、
21年間続いた内戦に、一応の収束を迎えました。
が、西部ダルフール地方での紛争が激化し、
内戦の傷跡を色濃く残す国内は疲弊し、
平和の訪れを確信するにはまだまだ遠いのが現状です。
何をしにいくのでしょう。
具体的には青少年のためのセンターの設立だそうです。
力仕事です。帰ってくる頃には真っ黒でマッチョです。
キャンプ内では多くの青年が学校を卒業し、労働する機会もなく
余暇を持て余したまま生活しています。
キャンプ内には麻薬も流行しており、暇つぶしに麻薬を愛用する青年も多いようです。
また、レイプ、強盗、殺人など、青少年による犯罪はあとを絶えません。
未来に希望を見出せないままにキャンプ生活が長期化しており、
その精神的な不安から犯罪に走るケースが非常に増えています。
とりあえず、夜中は外を歩けません。
そういった青年たちの精神的なケアが必要とされています。
そのために、キャンプ内ではさまざまな活動が行われています。
例えば、サッカーなどのスポーツ、裁縫教室、演劇などの文化芸術を含めた活動があります。
また、平和教育や、職業訓練、戦争のショックから精神的に立ち直るための支援などもあります。
せっかくなので、そういった活動を通して、キャンプ生活のサポートをできたらと思います。
ある程度自由にできる時間があるようなので、
自分と同じ23とかそのくらいの年齢で、
このキャンプに生活している人たちが、何を見て、何を思っているのか、知りたいと思います。
戦争とは、彼らにとっていったいどんなものなのでしょう。
ただ、僕と彼らが違うのは、生まれてくる場所が違っていたって、それだけなのではないでしょうか。
あと、子供や高齢者、そういったハンディキャップを抱えた人たちを
どのようにサポートしているのか。
難民キャンプの中での「福祉」というものを見てきたいと思います。
まぁ、難民キャンプの存在自体が福祉といえば福祉なのですが。