鍛えて社会適応 本末転倒
「介護予防」というコトバには、やっぱりなじめない。子どものときに育児が不可欠なように、高齢になれば介護は必要になる。それをあたかもあってはならない感染症のように“予防”するというのはいかがなものか。
しかも、その「介護予防事業」の中心になるのが「筋トレ」、つまり筋力トレーニングだというのもピンとこない。
私は理学療法士だから筋トレは専門領域だ。地域や老人施設の高齢者を相手に筋力をアップする訓練を指導してきた。その経験からいうと、10人に1人くらいは効果がある。だが、それは、何か月も訓練を続ける意志と根性のある人が10人いたうちの1人ということだ。そもそも、訓練に参加する高齢者は全体のこれまた10人に1人くらいしかいない。そうすると、筋トレの効果があるのは、100人に1人ということになる。
しかも、問題はここからだ。そのついた筋力を何に使うのかということが問われるからだ。
いくら高齢になっても筋力が急速に低下するわけではない。また、脳卒中で片方の手足が不自由になっても、よいほうの手足で起きあがったり立ったりはできる。ところが、老いた体やマヒした手足で生きていこうという気持ちがなくなってしまうと、その力を使わないために筋力が低下してしまうのだ。
老人の体を鍛えて社会に適応させようとするのは話が逆だ。老いた体、マヒのある体でも、もう一度生きていこうと思えるような、「老いを内在化した社会」が求められているのだ。(三好春樹=「生活とリハビリ研究所」代表)
この、三好春樹という人の言うことはなんだか癖があって、
正直、個人的な趣味でいえばあまり好きではないけれど、
今回のコメントには同感する部分も多く感じたので。
介護予防(新予防給付)という名目で
筋トレ事業が積極的に行なわれるようになりましたが、
実際はどうなんでしょう。
昔っから言われ続けてきたことのはずですが、
障害を克服する、というのはイコール障害を直すことではありません。
たとえば、身体的な何らかの障害があって右手が動かせなくなった。
右手を動かすことができるようにすることがゴールではなく、
右手を動かせなくなったことによって失われた動作を再び獲得することがゴールなのです。
そこに発見があり、喜びがあり、生活と結びついたリハビリテーションの姿があるはずです。
けれど、どうも、筋力トレーニングの様子からは、
それを感じることができません。
なぜ、高齢者の筋トレが長続きしないのか、そして、希望する人が少ないのか。
握力が何gになるってことよりも、自分でコップを持って飲み物を飲むことができるようになること。
モチベーションを引き出すのにどちらのほうが望ましいのかは一目瞭然ですよね。
このコラムで気になったのは、
介護予防自体を否定するような発言です。
筋トレがイコール介護予防であるような印象を抱かせるのは良くあることですので特には言いません。
が、
たとえば、これから先の人生のことを考えて、丁寧に歯を磨くようにし、歯科衛生士の助言を受けた。
栄養士のアドバイスを受けて食生活を見直した。
それも立派な介護予防であって、介護予防事業による効果です。
まぁ、一般的に言われる健康管理の延長上にあるわけで、
それをあえて「介護予防」という名称を使って表現するのもどうなのか、って言われると、
どうなのかなぁ、としか言えませんけれど。
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